人工知能の身近さがもたらすかもしれない新しい意識の理解

 心脳問題やクオリア問題の存在を知ったのは高校生の時で、世界がガラガラと音を立てて崩れるくらいに衝撃を受けた。心脳問題というのは脳で心が発生しているのかという問いのことで、クオリア問題というのはいかにして感覚世界が発生しているのかという問いのことだ。この「確かに」立ち上がっている「私」という視座とそれを支える感覚の発生は、ちょっと考えてみれば不可能なことにしか見えない。
 たとえば赤いリンゴを見ているときの「私が知覚しているこの赤い色」はいつどこで発生したのだろうか。もともと世界に「赤」は存在しない。「赤」は網膜に飛び込んできた波長600から800nm付近の電磁波に過ぎないし、それらは網膜で電気信号に変換されて脳へインプットされる。つまり脳では「電気信号」を「赤」に変換していることになるが、それは世界のありとあらゆる楽器の音を組み合わせてスターバックスラテを作るのと同じくらい不可能なことに見える。どんなに沢山の音をどんなに複雑に組み合わせても、けしてコーヒーにはならない。同様にどんなに複雑に電気信号を組み合わせても「赤」にはならない。

 もしも物理学というものを根底にして考えるのであれば、だから「私」が立ち上がることは不可能に見える。しかし、私は「私」を常に体験している。視覚は常に色彩を描写し続ける。どうやら世界というのは僕が考えている以上に滅茶苦茶みたいだった。当時僕はナマモノを扱う生物や医学みたいなサイエンスがあまり好きではなかったので、この嘘みたいな滅茶苦茶さの謎に人工知能からアプローチできないかと考えた。人工知能の世界にも「人工知能は意識を持ちうるか」という問いがあり、当時MITにいたマービン・ミンスキーはYESを掲げていたように思う。僕は僕自身が宇宙のチリが集まってある時点で意識を持った以上、人工的にもいつかは同じことができるのだろうと思っていた(今は少し違うけれど)。
 大学生になって蓋を開けてみると、どんなに複雑で優秀なプログラムを走らせたところで、それらは所詮コンピュータ内部での半導体の持つ電位差でしかないし、こういうものは便利ではあっても「意識」というものもはほとんど関係のないものなのだなと思うようになった。のび太はドラえもんと楽しそうに話しているけれど、本当はドラえもんには意識なんてなくてのび太は実はひとりぼっちなのかもしれない。
 意識とはあまり関係がないなと思ってからAIに対する興味が薄まった。哲学やデザインや建築にフラフラと惹かれて、学生時代としては最終的に量子コンピュータを研究することになった。これも良く考えてみれば量子力学のどこかに、ニュートン的ではない世界のどこかに意識のカケラを見つけることができるかもしれないとうっすら思っていたからなのかもしれない。

 人工知能とかAIという言葉が数年前から、多分過剰に聞かれるようになって、再び人工知能というものが気になっている。20年前とは違って、AIを搭載したり、AIを用いていると謳う製品がどんどん送り出されてきた。エンドユーザが使う製品の他にも、「自分で作って走らせて遊ぶオモチャの車」タイプのAIがいくつか出ていて、僕の知る限りではNVEDIAのJet Son nanoを用いたJetBot、AmazonのDeepRacer、それからオープンソースの諸々代表でクリスアンダーソンが仕掛けたというDonkey Carが存在している。JetBotはある程度の画像認識が可能で、「前に人が居たら止まる」みたいな判断もできる。後者2つは、コースを学習させると自動で走るようになる程度のオモチャだ。僕はDonkey Carを持っているけれど、正直なところ昔ながらのライントレーサーに毛が生えた程度にしか見えない。頭脳が所詮ラズベリーパイなので、計算機資源も限られていてお世辞にも頭が良さそうではない。
 けれど動く物理的実体があるせいなのか、そこには只の機械仕掛けではないある種の重みがあるような気がする。もちろんそれを意識や思考だなんて言うつもりはない。ただ電流が複雑に流れているだけだ。

 人工知能どころか、昨今では人工生命という学問領域があり、僕たちは意識や生命を理解する新しいフェーズに進もうとしている。それは、もしかすると「生命」という言葉には意味がなかったというような答えすら出しそうなラディカルな営みだろう。
 100年前にできた量子力学の成果がテクノロジーの進歩でようやく実用化されはじめたように、強力で安価なコンピュータと、Makerレベルで実装可能な動くロボット達が、古くから人類の抱えてきた意識や生命の問題にまったく新しい光を当てるかもしれない。

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